ブログを始めるにあたって

これまでの私は、身の上を曝け出す事への羞恥心と、インターネットという見えない糸で常日頃から誰かと繋がりを感じなければ生きていけないような虚弱な人間になってしまう事への恐怖心から、自己を不特定多数に晒すという行為を良しとせず、またそういった経験や機会を半ば意地になりながら避けに避ける人生を四半世紀以上の間、送ってきた。


mixiは登録こそしたものの、何をしていたと言われて思いたある節はなく、ツイッターは昔作ったアカウントのパスワードが分からなくなって数年以上使用しなくなり、Facebookは基本発言をしない。趣味の延長で参加を試みたInstagramはどうやら使い方を間違えているらしい。(これはいずれ記事にする)


しかし、こうして過去のSNS歴を振り返ってみると、存外SNSのメインストリームと呼ばれて差し支えないものにはちゃんと触れてきたのだという、何やら謎の優越感がある。(触れてきただけでその形や匂いや色などはわからないままのものがほとんどである)


何故そこまでSNSに関心がないのか。インターネットの普及が止まることを知らない平成の時代に生まれた身としては如何なものかと思いこそすれど、やはり自分自身、一般的にSNSと分類されるツールへの、無自覚の嫌悪感を抱いているのだろうと推測する。


では、何故ゆえにそのような人間がSNSの先頭グループとも言える「ブログ」を書くに至ったのか。身の上を曝け出し、他者からの反応を気にかけて、インターネットで見ず知らずの人と繋がりを持とうとしたのか。


そもそも「ブログ」とは何か。

私はこれまで他人が作ったブログを読む機会はほとんどなく、あったとすればそれは私個人が欲した情報を、たまたま消費者レベルで記事に書き連ねている方の文章を読む程度であった。その一人一人がどういった理念、思考、経緯で「ブログ」をはじめ、続けているかなど考えたこともない。


「ブログ」を書くなら、それなりの指針があって然るべきだと私は考える。例えば、小耳に挟んだ程度の情報ではあるが、どうやら広告収入というものがあり、それを使って小遣い稼ぎも合わせて「ブログ」を書く方もいるようだ。その場合はより多くの閲覧数を獲得するために、「検索でヒットしやすいワード」や、「流行に即した話題」、或いは「圧倒的に人々を惹きつけるような内容」の記事をコンスタントに書くなどの、週間雑誌のような内容が求められるのだろうと予測できる。しかしそれには相当な文才と、現社会への知識的関心、加えて一定ペースで記事を投稿するという努力が必要である。


ではそれ以外の人はどうなのだろう。

広告収入などは考えずに、数少ない生活時間を削ってまで他者へ伝えたい事があり、またそれをする事で多少なりとも自己のの満足感に繋がることで、「ブログ」に記事を書き続けているのだろうか。


形式はどうであれ、まず大前提にあるのは「不特定多数の他者に関与したい」「自分が思っている事、考えている事を誰かに知ってもらいたい」という気持ちがあるのではないだろうかと推測する。(そうでなければ手書きの日記で十分である)しかしその思考は、私が今まで毛嫌いし、憐れみすら感じていた「いつでも誰とでも繋がりたい族」が持つそれと同じではないだろうか。今こうしてブログの記事をメモアプリにいそいそと書き残している行為こそ私がこれまで半ば意地になりながら遠ざけてきた行為ではなかったか。いっそのこと、この記事もこのままメモ帳に残してブログ開設などやめてしまおうかと考えたがなんとか思いとどまることにした。


友人であるYは、「ツイッターは自分の排泄物だ」と言った。自分の排泄物を他人に見せびらかすとは知識人としてあるまじき行為だと心の中で罵倒したが、よくよく話を聞いてみれば興味深いと思えなくもない点が幾分かあった。


断片的にしか思い出せないが、「排泄物と割り切る事で他者からどう思われるか、などは気にならなくなる」、「好きなことを好きなだけ好きなように書けるようになる」とか、そういった内容だった気がする。要は周りの目なんぞ気にするな、という事だ。


日本的思考の奥ゆかしさを美しく感じ、立派な大和撫子を目指さんとするほど、その思考を後生大事に胸の内に秘めていた私は、周囲の人の目を気にし続け、求められるアクションをいち早く察知して行動し、無駄な波風は立てないよう努めてきた。そんな人間に「排泄物を曝け出す」ことを教えれば、混乱する事請け合いだろう。軽くカルチャーギャップである。(もちろん、ここでいう日本的思考というものは非常に穿った捉え方をしていることは自覚しているし、その本質は別にあると認識はしている)


排泄物という表現は如何なものかと思いながら、しかしせっかく匿名であるのだから、周囲の目線などは気にせず、好き勝手気ままに、思ったことを書き連ねる事ができるというのは、存外悪くないのではないかと思うようになった。それは一種の自慰行為であり、自己満足、自身への陶酔に他ならないのだが、それはそれでそれなりの快楽を得ることが出来るのかもしれないという淡い期待を抱いている。


前置きが長くなってしまったが、要約するとそういう事だ。このブログは私の思考を整理するための手帳である。時には中身も無ければオチも無いような長文が書かれたかと思えば、おいおいこれはツイッターで呟けばいいんじゃないかい? と言われかねないほど短い記事も書くだろう。誰かに有益な情報を与える事が無ければ、見ている人を不快な気持ちにさせる事があるかもしれない。願わくばこのブログが誰の目にも触れられず、加速するインターネットの荒波に揉まれて埋もれていってしまえとさえ思う。


何故ならこのブログは、私が私自身の、ただ日々を消化していくだけの人生に一石を投じるための備忘録に過ぎないのだから。